寂光院 情報
住所:京都市左京区大原草生町676
TEL :075-744-3341
拝観志納金(寂光院拝観料)
大人・高校生:600円
中学性:350円
小学生:100円
- 京都バス「大原」下車徒歩15分
- 京都駅前から京都バス17系統(18系統) 〔C3のりばから〕
- 京阪電車「出町柳駅」前から京都バス10系統・16系統・17系統
- 市営地下鉄「国際会館駅」から京都バス19系統
寂光院見どころまとめ
寂光院見どころ1:大原の里
秋の日に都をいそぐ髪(しず)の女 (め)の帰るほどなき大原の里(「拾遺愚草」)これは鎌倉時代の歌人藤原定家が、京都に柴や薪や炭を運んだ大原女(おはらめ)の姿を詠んだものといわれる。
平安時代末期以降、大原の地は比叡山の体制仏教から遁れてきた聖(ひじり)たちの隠棲の地として別所と呼ばれるようになるとともに、天台声明(しょうみょう)の根本道場としてあたり一帯には声明の音律が聞こえていたことであろう。
草生(くさお)の里もそのような大原のなかにあった。
草生の里の寂光院の名が歴史上にあらわれるのは、文治元年(1185) 秋に建礼門院徳子が寂光院に閑居してからである。
その後の寂光院は女人として建礼門院の遺跡を大切に守り伝えて今日にいたっている。
寂光院見どころ2:楚鐘「諸行無常の鐘」
鋳銅製 総高126.0cm 口径70.8cm
江戸時代(宝暦2年)
本堂の正面の池の汀にある江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常 (しょぎょうむじょう)の鐘」と称する楚鐘が懸かっている。
鐘楼の楚鐘は、笠型やや高く鐘身は胴張り少なく、乳の間は4区で5列4段の乳を4面に配する。
前後に配された撞座(つきざ)は、かなり下方になり八葉蓮華文を鋳出する。
鐘身に黄壁宗(おうばくしゅう)16世の百療元拙(ひゃくちげんせつ、1683~1753) 撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、浄土宗僧侶であった。
鋳物師は近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次である。
寂光院見どころ3:雪見灯龍
鋳鉄製 総高115.3cm
桃山時代
本堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯能で、 豊臣秀吉寄進と伝えられる。
宝珠、 笠、 火袋、 脚の4区からなる。
笠は円形で降り棟をもうけず、 軒先は花先形とする。
宝珠台は笠に造出している。
火袋は側面を柱で5間に分かち、 各面に五三の桐文を透し彫りにし、上方に欄間をもうけ格狭間(ごうざま)の煙出とし、1面を片開きの火口扉とする。
台は円形で台下に猫足三脚を付けている。
銘文等はないが、制作も優れ、保存も良好で重厚な鉄灯篭である。
寂光院見どころ4:姫小松の歌碑
本堂前の打の池のそばには、古来より桜と松が寄り添うように立っていて、その桜を「汀の桜」といい、 松を「姫小松」といった。
姫小松は細長く柔らかい松の葉が5本が一組になってつく、いわゆる五葉松のことである。
平成12年(2000)5月9日の不慮の本堂火災とともに、池の汀の桜と姫小松もともに被災し、とくに「姫小松」は倒木の危険があるため伐採のやむなきに至った。
寂光院見どころ4:ひめ小松一千年のおん姿手水鉢
江戸時代(慶長11年)
上面最長巾97.0cm高42.0cm
手水鉢(ちょうずばち)は茶事の時に、客人が席入りする前に柄約(ひしゃく)の水で手を洗い身を清めるためのものであるが、寂光院の手水鉢は書院北側にあり、現在は必ずしも茶事のために使われてはいない。
自然石の上面をやや楕円形に水溜を穿ったもので、上面の縁に「寂光院 慶長十一甲午(丙午か)年(1606) 六月吉日」とある。
寂光院見どころ5:本堂
平成時代(平成17年)
桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた寂光院本堂は、平成12年(2000)5月9日未明、 不慮の火災により焼失した。
再建は小松智光前院主の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、 5年の長き歳月を経て平成17年6月2日に落慶した。
槍材で屋根は柿葺(こけらぶき)。
正面3間奥行3間で正面左右2間、側面1間は跳ね上げ式の部戸(しとみど)で内側障子戸とする。
本堂扇額
本堂の軒下に掲げられている豊臣秀頼(1593~1615)により寄進されたと伝えられる扇額で、「寂光院御再興 黄門秀頼卿 御母儀浅井備前守息女為二世安楽也」とある。
これにより秀頼が母淀君(1569~1615)の現世と来世の2世安楽のために再興したことが分かる。
現在のものは平成12年(2000)の火災により焼失し、再興後に復元されたものである。
寂光院見どころ6:茶室孤雲
昭和時代
京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材が寂光院に下賜され、それをもとに茶室を造り、昭和6年(1931)に裏千家第14代無限斎千宗室宗匠による供茶を催し茶室抜きを行ったものである。
「孤雲(こうん)」の名のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、 「生歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という女院の歌を御覧になって、一行涙にむせんだという「平家物語」の大原御幸のなかの一節にちなむ。
寂光院見どころ7:建礼門院庵室跡 井戸跡
文治元年(1185)
長門(ながと)国壇ノ浦の合戦で平家が敗れたあと、建礼門院はひとり助けられて京都に連れ戻され、その年の9月、都を遠く離れた洛北の地大原寂光院に閑居した。
本堂の西奥に女院が隠棲していたと伝えられている庵跡と伝える場所がある。
翌2年の春、女院のもとを訪れた後白河法皇が見た庵室の様子は、「軒には蔦樺(つたあさがお)這ひかかり、信夫(しのぶ)まじりの忘草」「後ろは山、前は野辺」という有様で、「来る人まれなる所」であった。
女院は夫高倉天皇とわが子安徳天皇および平家一門の菩提を弔う余生を送りつつ、建久2年(1191)2月中旬この地でその生涯を閉じた。
庵室跡の右手奥に、女院が使用したという井戸が残る。
寂光院見どころ8:阿波内侍·大納言佐局·右京大夫·治部卿局ら侍女の墳墓
草生川をはさんで庵室跡の向かいに、建礼門院の侍女たちのものと伝える墓石がある。
前列が阿波内侍·大納言佐局 (だいなごんのすけのつぼね)·治部卿局(じぶきょうのつぼね)·右京大夫 (うきょうのだいぶ)、後列小侍従局(こじじゅうのつぼね)である。
なお、本堂前の池の汀にこの4人の名前を記し「在寺南翠黛山距此半丁程」 とある文化5年(1808)3月建立の石柱がある。