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大徳寺

大徳寺

大德寺 情報

住所: 京都市北区紫野大徳寺町53

TEL :075-491-0019

 

京都市バス「大徳寺前」下車徒歩すぐ。

 

大德寺見どころまとめ

大德寺見どころ1:根本中堂

国宝

江戸時代(寛永19年)

東塔地区の中心部にある比叡山延暦寺の総本堂であり、最澄が延暦7年(788)に創建した「一乗止観院」を起源とする。

現在の建物は織田信長の焼き討ち後、 慈眼大師天海の進言により徳川三代将軍家光が寛永19年(1642)に再建したものである。

再建当初は材葺(とちぶき)であったが、寛政10年(1798) 以後は銅板葺瓦棒(かわらぼう)入りとした。

桁行11間(37.57m)、梁間6間(23.63m)、軒高9.78m、棟高約24.46m、一重入母屋造の大建築は比叡山内はもとより滋賀県で最大級の仏堂であり、国宝に指定されている。

 

根本中堂廻廊

重要文化財根

本中堂(向かって右)の正面および左右両側面には廻廊がコの字型に続っている。

その構造形式は、「桁行折曲り41間、梁間2間、一重両下造(まやづくり)、正面前後軒唐破風、屋根梯葺」である。

また規模をメートルに換算すると、桁行は106.71メートル (352尺6寸4分)、梁間は4.72メートル(15尺6分)の長大な建築である。

柱間には墓股(かえるまた)があり、それぞれに違った彫刻がみられる。

根本中堂 内陣

内陣の護摩壇(ごまだん、本尊薬師如来の向かって左脇壇)では、毎日薬師護摩が1日も欠かすことなく焚かれ、世界の平和と人類の平安を祈り続けている。

大德寺見どころ2:大講堂

重要文化財

大講堂はその名の示す通り僧侶の学問研鎖の根本道場として発展し、慈恵大師良源によって始められた「法華大会広学堅義(ほっけだいえこうがくりゅうぎ)」をはじめ、最澄始修の「天台会法華十講(てんだいえほっけじっこう)」などの主要な論義法要が行われている。

さらに「混繋会(ねはんえ)」「阿覚大師会」「漣仏会(かんぶつえ)」「桓武天皇講」「伝教大師御影供(みえく)」「天台大師御影供」「辰張忌 (しんちょうき)」などの諸法会もここで修される。

また堂内には比叡山で修学修行した各宗の祖師像が各宗派から奉納され記られている。

現在の大講堂は昭和31年(1956)焼失後、山麓坂本の讃仏堂(さんぶつどう)を昭和38年に移築再建したものである。

大講堂内部

中央の本尊は胎蔵界の大日如来、右脇には十一面観音菩薩、左脇には弥動菩薩を記っている。

最澄は法華一乗と真言一乗との一致を説いたが、ここでは本尊大日如来の宝前にて法華経の論義が行われるのが特徴である。

大德寺見どころ3:戒壇院

江戸時代(延宝6年)

重要文化財

南都仏教で行われていた小乗具足戒(しょうじょうぐそくかい)に対して、大乗菩薩戒を授ける道場として最澄によって企画された堂宇であり、最澄滅後5年目の天長4年(827) 初代義真座主により創建された。

現在の戒壇院は延宝6年(1678)の建築で、方三間、一重、裳階(もこし)付宝形(ほうぎょう)造、材葺の建物である。

内部は石築の戒壇が設けられ、中央には授戒の三師たる釈迦牟尼仏(戒和上)、文殊菩薩(掲磨師)、弥勤菩薩(教授師)の三尊が泥られ、毎年、天台座主を伝戒師として円頓(えんどん)授戒が行われている。

 

大德寺見どころ4:法華総持院東塔·阿弥陀堂

昭和時代(東塔:昭和61年·阿弥陀堂:昭和12年)

向かって左奥には法華総持院東塔がそびえ立っている。

この東塔は最澄が法華経宣布の一大拠点として日本全国に建立を企画した六処宝塔の総元締ともいうべき近江宝塔院に当たる施設である。

これを創建したのは円仁であり、唐都(中国) 長安青龍寺の鎮国道場の形態を模し、本尊に胎蔵界の五仏を安置して天台密教の根本道場として建立された。

手前右側の建物は、昭和12年(1936)に比叡山開創1150年を記念して創建された念仏回向(えこう)の道場「阿弥陀堂」である。

大德寺見どころ5:釈迦堂

重要文化財

室町時代

西塔(さいとう)の本堂であり、転法輪堂とも西塔中堂とも称する。

当堂は第2世天台座主円澄が承和元年(834)に創建したもので、最澄自作の釈迦如来(秘仏)を本尊としている。

現在の堂宇は元亀2年(1571)の焼き討ち後、豊臣秀吉の命によって文禄4年(1595)に三井寺園城寺の弥勤堂(金堂)を移築したものであり、鎌倉時代初期に近い純和様の現存する延暦寺最古の建築物である。

建物は7間(22.75m)、8間(23.78m)、単層入母屋造銅板葺瓦棒(かわらほう)付で内外陣の形態など根本中堂と同じく天台仏堂の典型といえる。

大德寺見どころ6:三門(金毛閣)

重要文化財

下層:室町時代(大永6年)
上層:桃山時代(天正17年)

総門を入ると朱塗りで重層造の豪壮華麗な三門が見える。

5間3戸、二階二重門で入母屋(いりもや)造本瓦葺、両翼に山廊(さんろう)が付く。

下層は大永6年(1526)に連歌師宗長の助力によって造営されたものであるが、未完であったために天正17年(1589)に千利休が上層を造営して完成させた。

上層には「金毛閣(きんもうかく)」の肩額が掲げられる。

三門上層に自身の木像が安置されたことから、利休は豊臣秀吉の勘気に触れて同19年2月28日、自刃した。

千利休木像

江戸時代

三門上層安置

秀吉の怒りを買う原因となった千利休像で、大徳寺に雪見に訪れた際の姿といわれる。

大德寺見どころ7:法堂

重要文化財

江戸時代(寛永13年)

仏殿の後方に続いて建つのが、修行者に法を説くための法堂で、寛永13年(1636) 開山大
燈国師三百年遠忌に際して再建されたものである。

桁行5間、梁間4間、一重裳階付き入母屋造。

本瓦葺で仏殿と同様に禅宗様建築であるが、裳階部分は7間6間となり、大徳寺伽藍の中で最も大きな建造物である。

雲龍図

狩野探幽筆

江戸時代(寛永13年)

板絵著色法堂天井

法堂の天井に描かれた雲龍図で「探幽斎狩埜守信筆」の款記から作者は狩野探幽と知られ、35歳の若い時代の作品である。

鏡天井の三重円相のなかに、雲中から現れた龍が力強く描かれている。

大德寺見どころ8:龍翔寺鐘楼門

本坊のさらに西の奥まった所にある龍剃寺は、現在では大徳寺派の弟子を教育する専門道場となっている。

もとは後宇多天皇が南浦紹明の死後、勧請開山として西京安井に建立した禅寺であったが、応仁の乱で荒廃し天文年間 (1532~55)に大徳寺山内に移った。

現在の伽藍は大正14年(1925)山口玄洞によって再建されたもの。

 

 

大德寺見どころ9:呑湖閣

京都府指定文化財

江戸時代(寛政10年)芳春院

本坊の北奥にある芳春院は、慶長13年(1608)に加賀(石川県)の前田利家の夫人まつ(芳春
院)が、147世の玉室宗拍(ぎょくしつそうはく)を招いて建立した塔頭で、前田家の菩提所となっている。

楼閣造の呑湖閣(どんこかく)は横井等恰によってはじめ建てられたが焼失し、現在のものは寛政10年(1798)に再建された。楼上に昇れば京都の町が一望できる。